Vol.021 『早稲田大学幕張キャンパス
幕張三校をはじめ、多くの学校を抱える幕張は『学園のまち』とも呼ばれます。
かつてはその将来性に着目し、幕張へやってくることを検討していた学校がいくつかありました。今回は幕張三校開校前後の昭和52年から56年にかけての出来事です。

幕張新都心の文教地区と呼ばれるエリアには多くの学校が存在していました。幕張三校、渋谷幕張、昭和秀英、若葉看護学校、放送大学、神田外語大学、衛生短大。後年には幕張三校と若葉看護学校が統合され現在の幕総が出来上がります。しかし他にもこの土地を検討した学校がいくつかありました。今回は幻の隣人たちがテーマです。

青山学院大学
昭和50年代前半当時、私学関係者の話として『青学関係者が新キャンパスの候補地の一つに幕張を挙げている』との新聞報道がありました。実際、青学のホームページをチェックすると以下のような記述があります。


1982(昭和57)年、大学教育の充実と校地の拡張を図るため、厚木市に校地を購入。
文科系各部の1・2年次生及び世田谷キャンパスの理工学部1年次生を移し、厚木キャンパスを開学した。(青山学院ホームページ『学院の歩み』より引用)


おそらくはこの厚木キャンパスを探していた時の話だろうと思いますが、後追い記事が見当たらないところを見ると、幕張はあくまで候補の一つであったに過ぎないというのが実情だったんでしょうか?上記記述どおり最終的には神奈川県厚木に軍配が上がりました。確かに東京青山と神奈川厚木では国道246号線でつながってるし、妥当なのかなという気もしないでもありません。そしてもう一つ、こっちは誘致寸前という段階までこぎつけた学校がありました。

早稲田大学
それは、大隈重信(第8代内閣総理大臣)が1882年に創設した私学の雄、早稲田大学です。
創立100周年記念事業の一環で「人間・科学技術・環境」の真の共生を目指す新しい学問の旗手として『人間科学部』が設立されることになりました。そのためのキャンパスを探していたのです。その設置場所として候補の一つとして挙がったのが、幕張でした。
千葉県は『学園のまち構想』を推進しており、その地に私大の名門早稲田大学が進出するというのは願ってもない話。昭和55年4月に幕張三校、昭和56年4月に県立衛生短大、昭和57年に放送大学開校が内定していましたが「幕張三校だけがポツンと開校する形となるので、その周辺の具体的計画は早急に煮詰める必要がある」として早大誘致を積極的に働きかけていきます。
幕張新都心の持つ将来性と広大な土地面積を武器に、県議会による全会一致の誘致決議を手土産として、「川鉄誘致、成田空港建設に並ぶもの」と述べる千葉県知事自らが早大総長を訪問しました。
その活動が実り、「かなり有望、昭和54年度内に決定されるだろう」との見方が出来るところまでこぎつけます。
しかし幕張三校が開校した昭和55年4月頃から、新たな競争相手の攻勢が強まっていることが明らかになりました。

二人の早大OB
この誘致活動においては、二人のキーマンが登場します。この二人は日本の高度経済成長に大きな役割を果たした財界人であり、そしてともに早大OBでした。

井深 大 biography
いぶか まさる。栃木県生まれ。早稲田大学理工学部電気工学科卒業。
戊辰戦争の会津藩白虎隊士、井深茂太郎の縁者。1946年ソニーの前身、東京通信工業を盛田昭夫氏らと設立。技術者としてトランジスタラジオなど創造性、独創性溢れる製品を世に送り出し、『技術の井深、経営の盛田』の二人三脚で世界のソニーへと育て上げた。
また教育問題にも高い関心を寄せ、多数の幼児教育に関する著書がある。
1997年逝去、享年89歳。文化勲章、勲一等旭日大綬章受章。

堤 義明 biography
つつみ よしあき。東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。
衆議院議長・西武鉄道の創始者・堤康次郎を父とし、西武百貨店など流通グループの総師・堤清二氏を異母兄にもつ。西武鉄道、コクド、西武不動産、プリンスホテルなど多分野にわたる企業グループを築き上げ、世界一の資産家として話題となった。
また日本オリンピック委員会会長、プロ野球西武ライオンズオーナーを務めるなど、スポーツに関する数多くの役職も歴任している。

幕張新都心の持つ将来性に着目したのが
井深大氏。ネームバリューさながら教育についても造詣が深い同氏は、100周年記念事業費の企業向け募金運動を任されていました。幕張にとってはこれ以上無い、と言っていいほど心強い応援団でした。
一方の所沢誘致活動の中心にいた一人が堤義明氏です。早稲田本校(高田馬場)と同じ西武線沿線にある所沢の利便性を訴えて巻き返しを図り、最終的には所沢へキャンパスを構えることとなりました。

それから約10年後の1989年10月4日、幕張を訪れた堤義明氏は「早大の場合、西武線沿線に学生や先生方が多く住んでおり、幕張に進出するという話には最初から無理があった」と述べ、当時を振り返りました。

となりの・・・
誘致決定以後の出来事は幕張と何も関係ないことですが、必ずしも所沢キャンパス建設が円滑に進んだわけではなかったようです。官民挙げて早大誘致に取り組んでいた千葉県とは異なり、当時の埼玉県知事は誘致に対しむしろ消極的でした。それは建設予定地での反対運動が起こることが予想されたためです。
進出先である埼玉県所沢市三ヶ島地区は狭山丘陵の一角に位置し、豊かな自然に恵まれた美しさは映画『となりのトトロ』の舞台とされています。「
トトロの森を守ろう」と、環境が破壊されることを懸念した人々との協議が難航、早大側も環境への影響を慎重に調査しながら建設を進めることになりました。
その結果、100周年を迎えた昭和57年(1982年)には間に合わず、キャンパス開校は進出決定から6年後の昭和62年(1987年)でした。
早稲田大学
仮定の話をしてもどうにもなりませんが、もし誘致が成功し、早稲田大学が来ていたらどの辺に幕張キャンパスを構えたでしょうか?
現在の幕総のあたりか、もしくは幕張三校の裏側と花見川に面するとなりの区画だったと思われます。
その場合には第一回国際千葉駅伝で早大OB瀬古選手を応援するために、数多くの早大生が幕張三校を取り囲んでいたしょう。
そしてこれだけ近ければ、私たちも昼食や買物で学食や生協を利用させてもらってたかもしれません。
入学するのは・・・無理だった?にしても

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